世間では「特別な日には高級和牛ですき焼き」という風潮が根強いが、料理の構造から冷静に分析すれば、すき焼きに万単位の高級肉を投入するのは明白な無駄遣いである。

和牛の最高峰、美しい霜降りが織りなすA5ランクのブランド牛。

その魅力を甘辛く濃密な割下で煮込み、溶き卵にくぐらせて喰らう――。

冷静に料理の構造を解き明かしていくと、そこには強烈なパラドックスが潜んでいることに気づかされる。

実は、この「すき焼き」に対する違和感をはるか昔に指摘していた人物がいる。言わずと知れた漫画『美味しんぼ』の至高の料理人、海原雄山だ。

彼は作中で、すき焼きという料理法を「牛肉の愚かな食べ方」として痛烈に批判している。

砂糖と醤油という強烈な調味料で煮込み、牛肉が持つ繊細な旨味や香りを台無しにし、おまけに卵まで絡めて味をさらにボカしてしまう。

高級な肉であればあるほど、その良さを殺してしまう調理法だという主張である。

まさに冒頭の言葉と完全に一致する。

美食を極めた海原雄山も、現代のSNSで語られる生活者の実感も、同じ結論に行き着いているのだ。

すき焼きの主役たる割下は、醤油、砂糖、みりん、酒を煮詰めた強力な味覚の塊である。

どんなに繊細で上質な肉の風味であっても、この濃密な甘辛さの前にひれ伏さざるを得ない。

高級和牛が誇る真の価値とは何か。

それは、口の中でふわりと溶ける脂の質の良さや、赤身が持つ独特の芳醇な旨味、そして加熱した際に立ち上る和牛香(わぎゅうこう)と呼ばれる甘い匂いだ。

しかし、割下の強い醤油の香りと甘みは、それら肉本来が持つ微細な味覚のグラデーションをいとも簡単に塗りつぶしてしまう。

すき焼きにおいて我々が味わっているのは、肉の旨味そのものというよりも、「割下と脂が混ざり合ったハイカロリーなタレ」なのではないだろうか。

タレの味が支配的であるならば、そこに投じる肉は必ずしも数万円クラスの高級和牛である必要はない。

むしろ、適度な噛み応えがあり、タレの濃厚さに負けない肉の味を持つ安価な赤身肉や、輸入肉のほうが「すき焼きという料理」としてのバランスは優れているとさえ言える。

脂が乗りすぎた高級肉を甘辛いタレで煮込めば、数きれ食べただけで胃が重くなり、肉の良さを味わうどころではなくなってしまうのが関の山だ。

高級肉のポテンシャルを完璧に堪能したいのであれば、シンプルな塩とコショウで焼くステーキや、出汁にくぐらせて肉の脂と旨味をそのまま味わうしゃぶしゃぶ(雄山も作中で推奨していた)を選択するのが論理的帰結である。

ではなぜ、人はわざわざ高級肉をすき焼きにするのか。

それは味覚の体験というよりも、「高級な肉をすき焼きにして食べる」という贅沢なシチュエーションそのものを消費しているからに他ならない。

ハレの日の象徴としての「すき焼き」に高級肉を投入することで、満足感を買っているのだ。

料理としての合理性を欠いたまま、伝統とイメージだけでありがたがる構造。

海原雄山が昔から喝破し、現代のSNSでも改めて可視化されたこの指摘こそ、我々が一度疑ってみるべき「食の常識」なのかもしれない。