1年経った事件について

昨日で発生から1年経過した京アニ放火事件。

「あまりの凄惨さに言葉を失う」と首相すらTwitterに投稿した。

それほどまでに悲惨な事件だった。

犠牲者だけでなく犯人の実名すら報道するな~といったTwitter上でのケンカがかなり勃発していた。 個人的には犯人の名前が公開されることにはなんら問題ないと思う。 匿名報道は事実を隠蔽し続けることになる。

歴史という事実

史実がすべて匿名だったら何もわからないように名前という記号は必要である。 「大化の改新ではAさんがBさんと結託してCさんを殺害し、Dさんが自殺しました。」 なんて言われてもなんでDさんが自殺したのかよくわからない。 「蘇我」という意味をもった記号がなければ読み解くことはできない。

嫌いという感情

事件が起きて騒ぐことも問題ない。 むしろこの規模の事件が発生して騒がないほうがおかしい。 人の感情なんて他人が容易に制御できるものでもない。 それを抑圧する必要もない。 嫌なものを嫌と言える社会であるべきだ。 30人以上を殺した犯人を憎む感情も遮るべきではない。 「犯人め!こいつ!」と思うことに何ら問題もない。 ただ、それを理由に嘘をつくのはよくない。 犯罪者への犯罪行為もいけない。 やっていいことはせいぜいその人に近づかないようすることくらいだ。 それをするために必要なものが名前(と顔)である。

差別は定義できない

ここでいう差別は不利益を被ることを指す。 (差を利用して利益を被ることを逆差別と表現する。)

よく差別がーと騒ぐ人たちがいる。 日本に帰化しないで選挙権を要求する人たちが典型的だ。 この場合、他国に属しているので他国の選挙権を保有しており、不利益はなくむしろ利益を要求しているだけなので、逆差別を要求している。 貪欲な権利主張が行われる前提には人類みな平等的思考があるのだろう。 こういう人たちは様々な条件が組み合わさって構成されている社会を無視していることに気づかない。

人には好き嫌いという感情がある。 感情は金銭のように数値で表現できるものではない。 人それぞれ異なる。 経験・性別・人種あらゆる条件が積み重なったものなのだから。 それを尊重すべきだ。 というか、他人が1つのものさしで計測して、規定の量にしなさいと抑圧することこそが差別である。 他人への価値観の押し付けこそが差別といわれるものの本質である。 他人と自分は違うのだから同じになる必要ないんて一切ない。 平等という言葉こそ人権侵害だ。 現代の平等はただの均一化である。 人を人として見ていない。 事件を起こしたものと同じに扱われることが差別であり、 正直者はバカをみる典型例だ。

国家の制約を個人に押し付けないでくれ。

おわりに

後半は逸れた内容もあったが言いたいことは、名前は個人を象徴するものであり、それを隠す行為は個人を象徴することを放棄したことと同義である。 あと個人を尊重するのであれば、感情を捨てた同じ顔や色をしたロボットを目指すような方向には行かないでいただきたい。 現代の平等はただの均一化であることを知るべきだ。